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大阪本坊院代 貝田仁司

院代 貝田仁司
出身地 大阪府大阪市
趣味 日帰り温泉巡り
自己紹介 門信徒の皆様には、益々ご清祥にてお念仏の日々をお過ごしのことと存じます。引き続き、御同胞として深きご交誼を賜りたく、何卒宜しくお願いを申し上げます。合掌

「宗教離れ」と言われるようになって久しい日本ですが、お坊さんとして、その現状をどのように捉えていらっしゃいますか?

宗教に対する、世間の方のぼんやりとした捉え方の一つに、「迷信だ」とか「時代遅れだ」といったような事があろうかと思います。仏事というと「おはらい」や「おまじない」と同様にお考えの方も、多いのではないでしょうか? 宗教の一つの大きな特性として、儀式を伴うという事があります。ですので、誤解…とまでは言いませんが、それは、宗教の本質を捉えず、その表面だけに対する批判的な捉え方ではないかと、私は思います。そもそもの宗教とは、「我々は何のために生きるのか?」とか、「死んだらどうなるのか?」、また「我々が生きている、この世界とは何なのか?」といった、我々人間には答えることのできない哲学的な問いに、普遍的宗教とか民族的宗教とか難しい話 は割愛させて頂きますが、それぞれの地域やコミュニティーの中で、一定の答えを与えてきた、そういう側面も大きいのです。 そう考えると、科学が発展し、物も豊かになり、人権も守られるようになってきた現代において、宗教離れという現状は、ぼんやりとでも各個人の中に、前出のような問いに対する答え=心の支えが養われてきたと、捉えることもできます。たとえ、それが「ただ、たまたま生まれただけ」とか「死んだら終わり」とかであったとしても…迷いなく、前向きに生きていける支えであれば、それは喜ばしいことではないかと、私は考えます。 ただ、この無常の世の中、例えば、大好きだったおじいちゃん・おばあちゃん、自分を育ててくれたお父さん・お母さん、自分がお腹を痛めて生んだ・目に入れても痛くないくらい可愛がっていた自分の子ども、そんな大事な人に先立たれた時、また、不慮の事故で今までと同じように働けない、年を重ねる中でどんどん体も頭も衰えていく、不治の病で苦しみのなか死を待つのみ、そんなこの俗世の苦しみを、お釈迦様は「四苦八苦」とまとめられましたが、やはり個人や今の世論に立脚した心の支えだけでは、非常に頼りないだろうと私は思います。極論ではありますが、「お父さん、死んでもうたんで綺麗さっぱり終わりやね、良かったね!」とか、「どうせ死ぬだけやけど、前向きに頑張って生きよう!」とか、あなたは思えますか?少なくとも、私には無理でした。 まぁ、そこまでではなくても、人生に迷いが生じた時、苦しいと感じた時、ちょっと思い出して頼ってもらえる、そんなお寺、そんなお坊さんでありたいと、私は常々思います。 当寺院は浄土真宗のお寺です。あっち派とか、こっち何派とか、そんな柵(しがらみ)には縛られない単立寺院です。お釈迦様に始まり、何千年とたくさんの方々が検証を重ね、親鸞聖人が我々の為にまとめて下さった、その御念仏の教えを基本とし、古いけど新しい、そして、親しみやすく分かりやすい、そんな仏様の御教えを通じて、皆さんの心の支えとなれるように精進してまいります。 話は少し逸れましたが、「宗教離れ」について、もう一点、「宗教なんてあるから争いが起こるんだ」という方がいらっしゃいます。歴史を見ても、そして現在もなお、混沌とした宗教対立が、世界中で続いています。この批判的な考えも、決して間違えとは言えません。ただ、先ほどもお話したように、人間が、清く・正しく・前向きに生きる為の教え、この苦しみの世界で人の心の支えとなる教えは、全て尊いものだと私は思います。 お釈迦様は、一切の執着を捨てる=悟りに至ることが、この世の苦しみを離れる方法であると感得されました。その為の方法を、まるで医師が患者さんの病気や症状、またそれぞれの体質にあわせて薬を処方するように(これを応病与薬といいますが)、たくさんの教えを残して下さいました。 悟りという山の頂きに登る道は一つではありません。どこから登るか、何に重きを置くかによって、仏教の宗旨宗派は分かれています。そのどれもが正解であり、どれが正しいとか間違っているということはないんです。日本では、江戸時代の檀家制度の弊害か、今なお「うちの家は〇〇宗だ」とおっしゃる方が多い。しかし、「では、〇〇宗の教えとは、どんな教えですか?」と聞いてみると「よくわからん」とおっしゃいます。これでは全く本末転倒ですよね。 私は仏教者ですので、仏教を例に挙げましたが、それはどんな教えだって同じです。あなたが少しでも人生の様々な課題や苦しみを受入れつつ、前向きに生きていける為に必要な教えが、キリスト教であればキリスト教、イスラム教であればイスラム教、本来はそれで構わない。それが信教の自由です。 前振りが長くなりましたが、ではなぜ宗教は争うのか、一神教についてとか、宗教聖地の歴史的背景について、なんて言い出すと、またまた本質を逸れていくと思います。私が言いたいのは、人間は「自分が正しい!」、そして「相手が間違っている!」と、思ってしまう生き物だということです。それは、生きていく上で、必要な思考の一つなのかもしれません。しかし、人が清く・正しく・前向きに生きる為の教えは、全て尊いものであり、そして、その全てが尊重されるべき「正しい」もののはずです。ですから、結局のところ、それは宗教の問題ではなく、人間の問題なのです。その思考から離れられないのが人間、だからこそ、その傲慢と思い上がりから少しでも距離を置けるよう、むしろ宗教が必要である。そう、私は思います。 最後に、宗教離れと関連して、無宗教、無宗教と最近皆さんよくおっしゃいますが、究極的には無宗教の人間なんて存在しないと私は思います。人は、生きていく中で、「私はなぜ生きるのか」とか、「人は死んだらどうなるのか」なんて考える機会は、一度や二度ではないはずです。それが人間と動物の大きな違いなのですから。その答えが、「ただ、たまたま生まれただけ」とか、「死んだら終わり」とかであったとしても、自分の中に確立された答えがある時点で、それは立派な宗教です。既存の宗教に寄らないというだけ。本当のところ、なぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、なんて、人の身では知りえないんですから。 お釈迦様曰く、極楽浄土は非常に美しく素晴らしい所だそうです。しかし、残念ながら、私自身は行ったことも見たこともありません。しかし、御念仏を頂く我々が還して頂く場所は「その仏の国なんだ」と『信じて』います。だって、私を可愛がってくれたお婆ちゃん、私をこうして育てて下さったお父さん…その皆が最終的に行きつく場所が、穢れの国だったり、審判を受けて責め苦に苛まれたりって…嫌じゃないですか?我々が生きていく為には、動物性タンパク質も摂取しないといけません。「嘘も方便」だって、一回や二回ではないはずです。かなりザックリな解釈ですが、お釈迦様がそんな悩める我々の為に下さった応病与薬の薬が御念仏の教えであり、その真意をストレートに我々に伝えて下さったのが開祖親鸞聖人であると、少なくとも私は、信じています。

近年「宗教と金」の問題がニュース等でも取り上げれていますが、どのようにお考えですか?

そもそも、宗教法人がお預かりするお金は、全て浄財です。もちろん、収益事業は除いて、ですが。 浄財とは、寺院や慈善の為、利益や報酬を求めず寄贈されるお金…ざっくり言うと、お賽銭です。賽銭箱に「5円入れて下さい」とか、「1万円入れて下さい」とか、書いていません。自分のお気持ちで、出来る範囲で、納めて頂ければ十分なんです。…余談になるかもしれませんが、お賽銭は神様や仏様に、願い事を叶えてもらう為のお金ではありませんよ。利益や報酬を求めてはいけません。 話を本論に戻します。だから、といって「お気持ちで」とお伝えしても、納める方がお困りになります。ですから、「一般的はこれぐらいの方が多いですよ」といったお答えは致します。何が言いたいかというと、例えば、ご法事に伺った時、「年金生活で、こんだけしかようせんねん」と言って、5千円札を1枚、封筒に包んでくださっても、「もう置いといても使い道ないから、お寺で役に立てて」と100万円を、束で袱紗に包んで下さっても、私たちのお勤めの内容は、全く変わりません。…まぁ、人間ですので、心情的な誤差の範囲はお許しを頂きたいですが。そして、会館や納骨堂の使用など、誰でも、いつでも、いくらでも、という分けにはいかない場合には、この金額を目途に、という基準は設けています。しかし、これも決まった金額ではありません。難しい方は遠慮なくお申し出ください。「お金は追いかけない」「心を込めて尽くせば、お金はきちんと付いてくる」の方針でやってやってきた当寺院の住職が、しっかり相談にのります。なお、仏事は寺院の基本です。ですから、本堂や内仏を法事で使用される場合は、使用料などは頂いておりません。 また、お寺は営利団体ではありません。運営に必要なお金以外は、檀家さんや地域の方に還元することも、やはり基本ではないかと思います。「人が気軽に集まれるお寺にしたい」という住職の理念もあって、カラオケ・囲碁・将棋といった教室や、大阪プロレスさんなど地域のゲストをお招きしての秋祭り、無料での慰問演奏や、福祉・介護事業に取り組んでいるのもその為です。「お寺は税金かからんからええね~」なんて、冗談めかして言われることも多々ありますが、だから、宗教法人は税制の優遇があるんです。 「『〇〇円ないと、葬儀のお勤めはできん』とお寺に言われた」なんていう相談が時々あります。全くもって本末転倒、腹立たしい限りですね。そんな時は遠慮なく、西栄寺にご相談ください。 さて、前振りが長くなりましたが、先日、ニュースで、脱税のために宗教法人を買い取った方のインタビューが流れていました。この方、「信仰心はありますよ」なんておっしゃっていましたが、実態をともなっていない宗教法人の解散については、先ほども話の出た信教の自由、これが逆に壁となって、また、調査をする為の人員も不足しており、なにより、調査する方が「宗教ってよく分からない」のだそうです。そう言われると、私たち布教活動に携わるものの力不足であるようにも思われてなりません。不正を批判するのは簡単ですが、我々は、我々の出来る活動をコツコツと続けていきたいと思います。 当寺院に関して言えば、やはり、人のする事ですので、意図しない間違いや失敗はございます。ですから、税理士さんや弁護士さん、司法書士さんや産業医さん等、必要な専門知識をお持ちの方々に常々アドバイスを頂きながら、また、定期的に、監督官庁である文化庁はもちろん、税務署や労基署、防災に関しては消防署など、必要に応じて関係省庁の確認を頂き、「金の問題」といわれるような点に関して、何ら取り沙汰されるようなことはない運営を行っております。 実際のところは、住職しか分からないところもございますが…少なくとも、私の立場からはそのように感じております。仏の法や神の法に仕える者は、人の法に仕える事をまず第一とすべきではないかと、私は考えます。

そもそも、法事をする意味ってなんですか?

御法事の捉え方については、宗旨宗派で多少異なる面がございます。浄土真宗の場合は、全て「仏恩報謝」の作法。つまり、先に仏として極楽浄土に還られた故人さん・ご先祖さん、なにより御念仏頂く我々を、仏として仕上げて頂く、阿弥陀如来への感謝の気持ちを表させて頂く、その為の作法です。 説明が前後しましたが、「お釈迦様の教えは『物事に対する執着を離れる=悟りに至る』ための教えである」と、先にお話しました。これ自体もかなりザックリした説明なんですが、浄土真宗の教えというのは、「私たち凡人には、この娑婆の世界で悟りに至るなんて出来ないよね。なんで、御念仏『南無阿弥陀仏』を頂くものを、最後は、どんな執着も離れた仏として、自分の仏の国=極楽浄土に救うぞ!と決められた、阿弥陀如来に救って頂こう。」「その為に、御念仏を通じて仏様への感謝の生活を送りながら、極楽浄土に思いを馳せ、出来る限りでも煩悩を離れた前向きな人生を生きるぞ!」という宗派…ザックリ加減がマックスになりましたが、より詳しく聞きたい方は、是非直接お声掛けください。 さて、ですので、御念仏を頂いて仏として極楽浄土に還られた故人さん・ご先祖さん方を感謝の気持ちで偲びながら、我々も皆いつかは必ず御浄土へ還して頂く身、翻って、私達が今こうして生かして頂いていることへの感謝、今を支えて下さる周りの方々への感謝、そして何より、我々を必ず仏として救って下さる阿弥陀如来への感謝、そんなたくさんの感謝の気持ちを表させて頂くことが法事の作法であり、そして、その意味と言えます。 作法というと、私が入寺してすぐの頃、お茶のお稽古をされている檀家さんから聴かせて頂いたお話が、非常に印象的でした。「お茶の作法って、お茶碗を何回まわすとか言うでしょ?あれは、美味しく、心を込めて淹れて下さったお茶を、先ず器から確認させて頂く作法、その心をしっかり受け取らせて頂く作法なのよ。だから、お茶碗を何回まわすかばかりに気を取られて、せっかく淹れて頂いた美味しいお茶の味が分からないようでは、全く意味がないわよね。」と。私はお茶の作法は存じませんので、少しニュアンスは違うかもしれませんが、それを聴かせて頂いた時、「あぁ、お仏事の作法と同じだな」と強く印象に残ったのを覚えています。つまり、焼香を何回するか、どこで礼をするか、リンを何回打つか、そんなの事ばかりに気を取られて、気持ちの入っていないご法事は、全く意味がないということです。もっと言うと、我慢して正座しているのが法事だ、なんて大きな勘違いをしていらっしゃる方もいら っしゃいます。まぁ、故人さん・ご先祖さん、阿弥陀如来への感謝の気持ちを込めて正座を我慢しているのであれば、あながち間違いとは言えませんが…。昔はお勤めをさせて頂くに当たって、まず姿勢を正すという事で正座をしていました。ただ、今の方は慣れていらっしゃいませんし、高齢化で脚の悪い方もたくさんいらっしゃいます。何より「脚が痛いんで、早く終わらんかな」なんて思いながら手を合わせて頂いても、全く有難いことはありません。 ここまで言うと、余談になるかもしれませんが、もう一つ。お勤めに伺った我々に対して、やたらと気を使って頂く方がおられます。まるで、我々を丁重にもてなすのが法事の勤めだとでも思っていらっしゃるように…。そんな時に必ずお話させて頂くのが、先にお話した仏事作法の心構えとともに、我々法務員も、皆さんと同じ、悟りに至らない凡夫、凡人なんだということです。農家の方がお米や野菜を作っていらっしゃる間に、サラリーマンの方が社会経済の為に働いていらっしゃる間に、我々は仏様の教えを学び、仏事作法を学び、そして、皆さんの代わりお勤めをさせて頂く、それが我々の仕事です。ですから、我々も含めて、御念仏を頂く方は皆、御同朋・御同行と申します。つまり、上下関係の別は全くありません。そういう意味では、我々も皆さんと同じただの人、逆に「おい!おまえ!」なんて言われるとカチンとくるかもしれませんが…。人と人との最低限の礼儀さえあれば、それ以上の気を使って頂く必要は全くありません。むしろ、ざっくばらんにお話をして、またお話を聴かせて頂く中で、我々自身も見識を深めていく身なのです。 浄土真宗の仏事について、「仏恩報謝」とともに、もう一つ忘れてはならないのが「聴聞」です。これも、簡単に言うと、仏様の御教えを聴かせて頂くこと、そして法事は、その仏縁の機会であるということです。我々は、法話といって、お勤めの最後に必ずお話をします。とは言っても、私に関して言えば、入寺して最初のうちは緊張しながら、頑張ってお話いたしておりました。もちろん、真剣に質疑を交えて聴いて頂けるような方もいらっしゃいましたが、大抵、ずっと下を向いていらっしゃいます。頭を下げ、傾聴するのが作法ではございますが、これは、そういう意味ではありません。髪を触ったり、もじもじしながら、「早く終わらないかなぁ」という感じなのです。私のお話スキルの至らない点は大いにあったと思いますが、何より、お話を聴いて頂けなければ、「聴聞」になりません。では、どうすればよいか?ストレートに、「何か聞きたいことはありませんか?」と尋ねてみる事にしました。どんな質問が飛び出すか、こちらもスリリングではございますが、質問を頂いた際には、まさしく興味に即してお話できます。聞いて頂く方も真剣に聴いて頂けますし、何より、お話している私が「今、仏様の言葉を聴かせて頂いているな」と思える機会も多くなりました。「何か聞きたいことはありませんか?」と尋ねてみても「いや、別に。」と言われる事も多々あります。そんな時、最近は無理にお話はしません。お茶を頂きながら、また帰り支度をしながら、世間話をして、その中で何か、仏様のお話のできる自然な糸口はないかを探します。それは、何らかの「聴聞」の機会なくして、法事は成立しない、と私は考えるからです。「話すほうは話す。聴くほうは黙って下を向いて聴く。今は分からなくても、その機縁に遇えば分かる」なんておっしゃる方も、いらっしゃるかもしれません。しかし、その結果が、先の「宗教離れ」なんて言葉の一因であったり、何より、私はただの仕事に対する責任放棄ではないかと、考えるからです。 ですから、ご法事の際、皆さんも、「こんな事、聞いていいんかな?」とか、「こんなん今更聞くん恥ずかしいわ」なんて思わず、是非どんどん質問して下さい。我々の職責は、お勤めをするだけではありません。お仏事のご相談はもちろん、仏様のお話をさせて頂くこと、もっと単純に、仏教やお寺・お坊さんに興味をもって頂くこと、そしてその知識をお伝えすることも我々の務めなのです。

では、最後に単純な質問を…休日は何をしてますか?そもそも、休日ってあるんですか?

私個人に関して言えば、休日の午前中、健康維持と運動不足解消の為、ムエタイジムに通っています。ジムの先生は皆タイ人、つまり、タイ語のネイティブですので、今はタイ語の習得にも努めています。ジムの会費だけで、タイ語学校にも通えて一石二鳥です。ギリギリ日常会話くらいは分かるようになってきましたので、今度はタイ語検定に挑戦しようかな?なんて思っています。英語を学んだ時も思いましたが、他言語の習得って、その国の社会や文化背景なんかが窺い知れて、楽しいんですよね。そこから反対に、普段は意識することのない日本語の言語構成や、時には日本人の思考の特徴…なんかにも気付く事ができるんです。 午後は色々…友人と休みが合えば、食事に行きますね。俗に言う、「飲みに行く」です。もちろん、お肉も食べます。先ほどもお話したように、浄土真宗の法務員は、皆さんと同じ、ただの人。ですから、滝に打たれたり、山を走ったりはしません。ただ、食事を頂く際にも、その頂いた命への感謝、食材・料理、そしてその場所やその機会を作って頂いた方への感謝、友人とゆっくり過ごせる時間への感謝、その他諸々、感謝の気持ちは、忘れないようにしています。いちいち口に出したりはしませんが…。休日の午後、一人の時は、サウナとか日帰り温泉が多い、かな。一人カラオケはしませんが、一人飲みとかは全然します。スナックとか、そういう騒がしいところより、お酒やお料理を、ゆっくりと楽しめるようなお店が好きです。あ、リーズナブルに!これが一番重要。 お寺は、葬儀など急な予定が多いので、「明日のスケジュール、休み枠が2人分空いたから、明日はEさんとAさんが休みね」といった感じで、前日の夕方にしか休みが決まりません。また、土日祝は法事が立て込むので、休みは、ほとんど平日です。そんな職場ですので、予定が遇う友人というと本当に限られてきます。土日祝が休みの友人達とは、年に1、2回しか会えません。でも今って、SNSなんかもあって、久しぶりに会った気がしませんよね?本当に便利な世の中になりました。 何をしているとか、何を考えていとか、顔を合わせなくても様子が分かる…もちろん、公開している部分だけではありますが、下手をすると、毎日顔を合わせていた学生時代なんかより、嗜好や思想も含めて、お互いのプライベートに詳しいかもしれません。世の中便利になって、分からない事はすぐ調べることができる、何だったらAIさんが自分の代わりに何でも作ってくれちゃう。そりゃ、人生の重大局面に遭遇しなければ、いや、遭遇したとしても、宗教の存在意義なんて見出せないのも納得できますよね。 余談ついでに、私は頭を丸刈りにしていますが、浄土真宗では、別に剃髪する必要はないんです。得度式、簡単に言うと、僧侶の資格を得る儀式で、その際には剃髪しますが、その後、髪型は自由です。西栄寺にはいませんが、他寺の真宗僧侶の方には、茶髪やロン毛の方もいらっしゃいますよ。では、なぜ丸刈りにしているのか?単純に、一度短くすると、髪を伸ばすのも、手入れするのも面倒だからです。多様性の時代、とはいえ、やはりスーツにスキンヘッドでは違和感あるでしょうが、我々は職務上も全く違和感ありませんし。お坊さんのプライベート…といっても、現代社会においては、職務形態は多種多様、趣味や嗜好も人それぞれ、つまり、色々違って当り前。そんなところもまた、皆さんと同じです。

「宗教離れ」と言われるようになって久しい日本ですが、お坊さんとして、その現状をどのように捉えていらっしゃいますか?

宗教に対する、世間の方のぼんやりとした捉え方の一つに、「迷信だ」とか「時代遅れだ」といったような事があろうかと思います。仏事というと「おはらい」や「おまじない」と同様にお考えの方も、多いのではないでしょうか? 宗教の一つの大きな特性として、儀式を伴うという事があります。ですので、誤解…とまでは言いませんが、それは、宗教の本質を捉えず、その表面だけに対する批判的な捉え方ではないかと、私は思います。そもそもの宗教とは、「我々は何のために生きるのか?」とか、「死んだらどうなるのか?」、また「我々が生きている、この世界とは何なのか?」といった、我々人間には答えることのできない哲学的な問いに、普遍的宗教とか民族的宗教とか難しい話 は割愛させて頂きますが、それぞれの地域やコミュニティーの中で、一定の答えを与えてきた、そういう側面も大きいのです。 そう考えると、科学が発展し、物も豊かになり、人権も守られるようになってきた現代において、宗教離れという現状は、ぼんやりとでも各個人の中に、前出のような問いに対する答え=心の支えが養われてきたと、捉えることもできます。たとえ、それが「ただ、たまたま生まれただけ」とか「死んだら終わり」とかであったとしても…迷いなく、前向きに生きていける支えであれば、それは喜ばしいことではないかと、私は考えます。 ただ、この無常の世の中、例えば、大好きだったおじいちゃん・おばあちゃん、自分を育ててくれたお父さん・お母さん、自分がお腹を痛めて生んだ・目に入れても痛くないくらい可愛がっていた自分の子ども、そんな大事な人に先立たれた時、また、不慮の事故で今までと同じように働けない、年を重ねる中でどんどん体も頭も衰えていく、不治の病で苦しみのなか死を待つのみ、そんなこの俗世の苦しみを、お釈迦様は「四苦八苦」とまとめられましたが、やはり個人や今の世論に立脚した心の支えだけでは、非常に頼りないだろうと私は思います。極論ではありますが、「お父さん、死んでもうたんで綺麗さっぱり終わりやね、良かったね!」とか、「どうせ死ぬだけやけど、前向きに頑張って生きよう!」とか、あなたは思えますか?少なくとも、私には無理でした。 まぁ、そこまでではなくても、人生に迷いが生じた時、苦しいと感じた時、ちょっと思い出して頼ってもらえる、そんなお寺、そんなお坊さんでありたいと、私は常々思います。 当寺院は浄土真宗のお寺です。あっち派とか、こっち何派とか、そんな柵(しがらみ)には縛られない単立寺院です。お釈迦様に始まり、何千年とたくさんの方々が検証を重ね、親鸞聖人が我々の為にまとめて下さった、その御念仏の教えを基本とし、古いけど新しい、そして、親しみやすく分かりやすい、そんな仏様の御教えを通じて、皆さんの心の支えとなれるように精進してまいります。 話は少し逸れましたが、「宗教離れ」について、もう一点、「宗教なんてあるから争いが起こるんだ」という方がいらっしゃいます。歴史を見ても、そして現在もなお、混沌とした宗教対立が、世界中で続いています。この批判的な考えも、決して間違えとは言えません。ただ、先ほどもお話したように、人間が、清く・正しく・前向きに生きる為の教え、この苦しみの世界で人の心の支えとなる教えは、全て尊いものだと私は思います。 お釈迦様は、一切の執着を捨てる=悟りに至ることが、この世の苦しみを離れる方法であると感得されました。その為の方法を、まるで医師が患者さんの病気や症状、またそれぞれの体質にあわせて薬を処方するように(これを応病与薬といいますが)、たくさんの教えを残して下さいました。 悟りという山の頂きに登る道は一つではありません。どこから登るか、何に重きを置くかによって、仏教の宗旨宗派は分かれています。そのどれもが正解であり、どれが正しいとか間違っているということはないんです。日本では、江戸時代の檀家制度の弊害か、今なお「うちの家は〇〇宗だ」とおっしゃる方が多い。しかし、「では、〇〇宗の教えとは、どんな教えですか?」と聞いてみると「よくわからん」とおっしゃいます。これでは全く本末転倒ですよね。 私は仏教者ですので、仏教を例に挙げましたが、それはどんな教えだって同じです。あなたが少しでも人生の様々な課題や苦しみを受入れつつ、前向きに生きていける為に必要な教えが、キリスト教であればキリスト教、イスラム教であればイスラム教、本来はそれで構わない。それが信教の自由です。 前振りが長くなりましたが、ではなぜ宗教は争うのか、一神教についてとか、宗教聖地の歴史的背景について、なんて言い出すと、またまた本質を逸れていくと思います。私が言いたいのは、人間は「自分が正しい!」、そして「相手が間違っている!」と、思ってしまう生き物だということです。それは、生きていく上で、必要な思考の一つなのかもしれません。しかし、人が清く・正しく・前向きに生きる為の教えは、全て尊いものであり、そして、その全てが尊重されるべき「正しい」もののはずです。ですから、結局のところ、それは宗教の問題ではなく、人間の問題なのです。その思考から離れられないのが人間、だからこそ、その傲慢と思い上がりから少しでも距離を置けるよう、むしろ宗教が必要である。そう、私は思います。 最後に、宗教離れと関連して、無宗教、無宗教と最近皆さんよくおっしゃいますが、究極的には無宗教の人間なんて存在しないと私は思います。人は、生きていく中で、「私はなぜ生きるのか」とか、「人は死んだらどうなるのか」なんて考える機会は、一度や二度ではないはずです。それが人間と動物の大きな違いなのですから。その答えが、「ただ、たまたま生まれただけ」とか、「死んだら終わり」とかであったとしても、自分の中に確立された答えがある時点で、それは立派な宗教です。既存の宗教に寄らないというだけ。本当のところ、なぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、なんて、人の身では知りえないんですから。 お釈迦様曰く、極楽浄土は非常に美しく素晴らしい所だそうです。しかし、残念ながら、私自身は行ったことも見たこともありません。しかし、御念仏を頂く我々が還して頂く場所は「その仏の国なんだ」と『信じて』います。だって、私を可愛がってくれたお婆ちゃん、私をこうして育てて下さったお父さん…その皆が最終的に行きつく場所が、穢れの国だったり、審判を受けて責め苦に苛まれたりって…嫌じゃないですか?我々が生きていく為には、動物性タンパク質も摂取しないといけません。「嘘も方便」だって、一回や二回ではないはずです。かなりザックリな解釈ですが、お釈迦様がそんな悩める我々の為に下さった応病与薬の薬が御念仏の教えであり、その真意をストレートに我々に伝えて下さったのが開祖親鸞聖人であると、少なくとも私は、信じています。

近年「宗教と金」の問題がニュース等でも取り上げれていますが、どのようにお考えですか?

そもそも、宗教法人がお預かりするお金は、全て浄財です。もちろん、収益事業は除いて、ですが。 浄財とは、寺院や慈善の為、利益や報酬を求めず寄贈されるお金…ざっくり言うと、お賽銭です。賽銭箱に「5円入れて下さい」とか、「1万円入れて下さい」とか、書いていません。自分のお気持ちで、出来る範囲で、納めて頂ければ十分なんです。…余談になるかもしれませんが、お賽銭は神様や仏様に、願い事を叶えてもらう為のお金ではありませんよ。利益や報酬を求めてはいけません。 話を本論に戻します。だから、といって「お気持ちで」とお伝えしても、納める方がお困りになります。ですから、「一般的はこれぐらいの方が多いですよ」といったお答えは致します。何が言いたいかというと、例えば、ご法事に伺った時、「年金生活で、こんだけしかようせんねん」と言って、5千円札を1枚、封筒に包んでくださっても、「もう置いといても使い道ないから、お寺で役に立てて」と100万円を、束で袱紗に包んで下さっても、私たちのお勤めの内容は、全く変わりません。…まぁ、人間ですので、心情的な誤差の範囲はお許しを頂きたいですが。そして、会館や納骨堂の使用など、誰でも、いつでも、いくらでも、という分けにはいかない場合には、この金額を目途に、という基準は設けています。しかし、これも決まった金額ではありません。難しい方は遠慮なくお申し出ください。「お金は追いかけない」「心を込めて尽くせば、お金はきちんと付いてくる」の方針でやってやってきた当寺院の住職が、しっかり相談にのります。なお、仏事は寺院の基本です。ですから、本堂や内仏を法事で使用される場合は、使用料などは頂いておりません。 また、お寺は営利団体ではありません。運営に必要なお金以外は、檀家さんや地域の方に還元することも、やはり基本ではないかと思います。「人が気軽に集まれるお寺にしたい」という住職の理念もあって、カラオケ・囲碁・将棋といった教室や、大阪プロレスさんなど地域のゲストをお招きしての秋祭り、無料での慰問演奏や、福祉・介護事業に取り組んでいるのもその為です。「お寺は税金かからんからええね~」なんて、冗談めかして言われることも多々ありますが、だから、宗教法人は税制の優遇があるんです。 「『〇〇円ないと、葬儀のお勤めはできん』とお寺に言われた」なんていう相談が時々あります。全くもって本末転倒、腹立たしい限りですね。そんな時は遠慮なく、西栄寺にご相談ください。 さて、前振りが長くなりましたが、先日、ニュースで、脱税のために宗教法人を買い取った方のインタビューが流れていました。この方、「信仰心はありますよ」なんておっしゃっていましたが、実態をともなっていない宗教法人の解散については、先ほども話の出た信教の自由、これが逆に壁となって、また、調査をする為の人員も不足しており、なにより、調査する方が「宗教ってよく分からない」のだそうです。そう言われると、私たち布教活動に携わるものの力不足であるようにも思われてなりません。不正を批判するのは簡単ですが、我々は、我々の出来る活動をコツコツと続けていきたいと思います。 当寺院に関して言えば、やはり、人のする事ですので、意図しない間違いや失敗はございます。ですから、税理士さんや弁護士さん、司法書士さんや産業医さん等、必要な専門知識をお持ちの方々に常々アドバイスを頂きながら、また、定期的に、監督官庁である文化庁はもちろん、税務署や労基署、防災に関しては消防署など、必要に応じて関係省庁の確認を頂き、「金の問題」といわれるような点に関して、何ら取り沙汰されるようなことはない運営を行っております。 実際のところは、住職しか分からないところもございますが…少なくとも、私の立場からはそのように感じております。仏の法や神の法に仕える者は、人の法に仕える事をまず第一とすべきではないかと、私は考えます。

そもそも、法事をする意味ってなんですか?

御法事の捉え方については、宗旨宗派で多少異なる面がございます。浄土真宗の場合は、全て「仏恩報謝」の作法。つまり、先に仏として極楽浄土に還られた故人さん・ご先祖さん、なにより御念仏頂く我々を、仏として仕上げて頂く、阿弥陀如来への感謝の気持ちを表させて頂く、その為の作法です。 説明が前後しましたが、「お釈迦様の教えは『物事に対する執着を離れる=悟りに至る』ための教えである」と、先にお話しました。これ自体もかなりザックリした説明なんですが、浄土真宗の教えというのは、「私たち凡人には、この娑婆の世界で悟りに至るなんて出来ないよね。なんで、御念仏『南無阿弥陀仏』を頂くものを、最後は、どんな執着も離れた仏として、自分の仏の国=極楽浄土に救うぞ!と決められた、阿弥陀如来に救って頂こう。」「その為に、御念仏を通じて仏様への感謝の生活を送りながら、極楽浄土に思いを馳せ、出来る限りでも煩悩を離れた前向きな人生を生きるぞ!」という宗派…ザックリ加減がマックスになりましたが、より詳しく聞きたい方は、是非直接お声掛けください。 さて、ですので、御念仏を頂いて仏として極楽浄土に還られた故人さん・ご先祖さん方を感謝の気持ちで偲びながら、我々も皆いつかは必ず御浄土へ還して頂く身、翻って、私達が今こうして生かして頂いていることへの感謝、今を支えて下さる周りの方々への感謝、そして何より、我々を必ず仏として救って下さる阿弥陀如来への感謝、そんなたくさんの感謝の気持ちを表させて頂くことが法事の作法であり、そして、その意味と言えます。 作法というと、私が入寺してすぐの頃、お茶のお稽古をされている檀家さんから聴かせて頂いたお話が、非常に印象的でした。「お茶の作法って、お茶碗を何回まわすとか言うでしょ?あれは、美味しく、心を込めて淹れて下さったお茶を、先ず器から確認させて頂く作法、その心をしっかり受け取らせて頂く作法なのよ。だから、お茶碗を何回まわすかばかりに気を取られて、せっかく淹れて頂いた美味しいお茶の味が分からないようでは、全く意味がないわよね。」と。私はお茶の作法は存じませんので、少しニュアンスは違うかもしれませんが、それを聴かせて頂いた時、「あぁ、お仏事の作法と同じだな」と強く印象に残ったのを覚えています。つまり、焼香を何回するか、どこで礼をするか、リンを何回打つか、そんなの事ばかりに気を取られて、気持ちの入っていないご法事は、全く意味がないということです。もっと言うと、我慢して正座しているのが法事だ、なんて大きな勘違いをしていらっしゃる方もいら っしゃいます。まぁ、故人さん・ご先祖さん、阿弥陀如来への感謝の気持ちを込めて正座を我慢しているのであれば、あながち間違いとは言えませんが…。昔はお勤めをさせて頂くに当たって、まず姿勢を正すという事で正座をしていました。ただ、今の方は慣れていらっしゃいませんし、高齢化で脚の悪い方もたくさんいらっしゃいます。何より「脚が痛いんで、早く終わらんかな」なんて思いながら手を合わせて頂いても、全く有難いことはありません。 ここまで言うと、余談になるかもしれませんが、もう一つ。お勤めに伺った我々に対して、やたらと気を使って頂く方がおられます。まるで、我々を丁重にもてなすのが法事の勤めだとでも思っていらっしゃるように…。そんな時に必ずお話させて頂くのが、先にお話した仏事作法の心構えとともに、我々法務員も、皆さんと同じ、悟りに至らない凡夫、凡人なんだということです。農家の方がお米や野菜を作っていらっしゃる間に、サラリーマンの方が社会経済の為に働いていらっしゃる間に、我々は仏様の教えを学び、仏事作法を学び、そして、皆さんの代わりお勤めをさせて頂く、それが我々の仕事です。ですから、我々も含めて、御念仏を頂く方は皆、御同朋・御同行と申します。つまり、上下関係の別は全くありません。そういう意味では、我々も皆さんと同じただの人、逆に「おい!おまえ!」なんて言われるとカチンとくるかもしれませんが…。人と人との最低限の礼儀さえあれば、それ以上の気を使って頂く必要は全くありません。むしろ、ざっくばらんにお話をして、またお話を聴かせて頂く中で、我々自身も見識を深めていく身なのです。 浄土真宗の仏事について、「仏恩報謝」とともに、もう一つ忘れてはならないのが「聴聞」です。これも、簡単に言うと、仏様の御教えを聴かせて頂くこと、そして法事は、その仏縁の機会であるということです。我々は、法話といって、お勤めの最後に必ずお話をします。とは言っても、私に関して言えば、入寺して最初のうちは緊張しながら、頑張ってお話いたしておりました。もちろん、真剣に質疑を交えて聴いて頂けるような方もいらっしゃいましたが、大抵、ずっと下を向いていらっしゃいます。頭を下げ、傾聴するのが作法ではございますが、これは、そういう意味ではありません。髪を触ったり、もじもじしながら、「早く終わらないかなぁ」という感じなのです。私のお話スキルの至らない点は大いにあったと思いますが、何より、お話を聴いて頂けなければ、「聴聞」になりません。では、どうすればよいか?ストレートに、「何か聞きたいことはありませんか?」と尋ねてみる事にしました。どんな質問が飛び出すか、こちらもスリリングではございますが、質問を頂いた際には、まさしく興味に即してお話できます。聞いて頂く方も真剣に聴いて頂けますし、何より、お話している私が「今、仏様の言葉を聴かせて頂いているな」と思える機会も多くなりました。「何か聞きたいことはありませんか?」と尋ねてみても「いや、別に。」と言われる事も多々あります。そんな時、最近は無理にお話はしません。お茶を頂きながら、また帰り支度をしながら、世間話をして、その中で何か、仏様のお話のできる自然な糸口はないかを探します。それは、何らかの「聴聞」の機会なくして、法事は成立しない、と私は考えるからです。「話すほうは話す。聴くほうは黙って下を向いて聴く。今は分からなくても、その機縁に遇えば分かる」なんておっしゃる方も、いらっしゃるかもしれません。しかし、その結果が、先の「宗教離れ」なんて言葉の一因であったり、何より、私はただの仕事に対する責任放棄ではないかと、考えるからです。 ですから、ご法事の際、皆さんも、「こんな事、聞いていいんかな?」とか、「こんなん今更聞くん恥ずかしいわ」なんて思わず、是非どんどん質問して下さい。我々の職責は、お勤めをするだけではありません。お仏事のご相談はもちろん、仏様のお話をさせて頂くこと、もっと単純に、仏教やお寺・お坊さんに興味をもって頂くこと、そしてその知識をお伝えすることも我々の務めなのです。

では、最後に単純な質問を…休日は何をしてますか?そもそも、休日ってあるんですか?

私個人に関して言えば、休日の午前中、健康維持と運動不足解消の為、ムエタイジムに通っています。ジムの先生は皆タイ人、つまり、タイ語のネイティブですので、今はタイ語の習得にも努めています。ジムの会費だけで、タイ語学校にも通えて一石二鳥です。ギリギリ日常会話くらいは分かるようになってきましたので、今度はタイ語検定に挑戦しようかな?なんて思っています。英語を学んだ時も思いましたが、他言語の習得って、その国の社会や文化背景なんかが窺い知れて、楽しいんですよね。そこから反対に、普段は意識することのない日本語の言語構成や、時には日本人の思考の特徴…なんかにも気付く事ができるんです。 午後は色々…友人と休みが合えば、食事に行きますね。俗に言う、「飲みに行く」です。もちろん、お肉も食べます。先ほどもお話したように、浄土真宗の法務員は、皆さんと同じ、ただの人。ですから、滝に打たれたり、山を走ったりはしません。ただ、食事を頂く際にも、その頂いた命への感謝、食材・料理、そしてその場所やその機会を作って頂いた方への感謝、友人とゆっくり過ごせる時間への感謝、その他諸々、感謝の気持ちは、忘れないようにしています。いちいち口に出したりはしませんが…。休日の午後、一人の時は、サウナとか日帰り温泉が多い、かな。一人カラオケはしませんが、一人飲みとかは全然します。スナックとか、そういう騒がしいところより、お酒やお料理を、ゆっくりと楽しめるようなお店が好きです。あ、リーズナブルに!これが一番重要。 お寺は、葬儀など急な予定が多いので、「明日のスケジュール、休み枠が2人分空いたから、明日はEさんとAさんが休みね」といった感じで、前日の夕方にしか休みが決まりません。また、土日祝は法事が立て込むので、休みは、ほとんど平日です。そんな職場ですので、予定が遇う友人というと本当に限られてきます。土日祝が休みの友人達とは、年に1、2回しか会えません。でも今って、SNSなんかもあって、久しぶりに会った気がしませんよね?本当に便利な世の中になりました。 何をしているとか、何を考えていとか、顔を合わせなくても様子が分かる…もちろん、公開している部分だけではありますが、下手をすると、毎日顔を合わせていた学生時代なんかより、嗜好や思想も含めて、お互いのプライベートに詳しいかもしれません。世の中便利になって、分からない事はすぐ調べることができる、何だったらAIさんが自分の代わりに何でも作ってくれちゃう。そりゃ、人生の重大局面に遭遇しなければ、いや、遭遇したとしても、宗教の存在意義なんて見出せないのも納得できますよね。 余談ついでに、私は頭を丸刈りにしていますが、浄土真宗では、別に剃髪する必要はないんです。得度式、簡単に言うと、僧侶の資格を得る儀式で、その際には剃髪しますが、その後、髪型は自由です。西栄寺にはいませんが、他寺の真宗僧侶の方には、茶髪やロン毛の方もいらっしゃいますよ。では、なぜ丸刈りにしているのか?単純に、一度短くすると、髪を伸ばすのも、手入れするのも面倒だからです。多様性の時代、とはいえ、やはりスーツにスキンヘッドでは違和感あるでしょうが、我々は職務上も全く違和感ありませんし。お坊さんのプライベート…といっても、現代社会においては、職務形態は多種多様、趣味や嗜好も人それぞれ、つまり、色々違って当り前。そんなところもまた、皆さんと同じです。