本願、念仏、他力ということ

 その昔、まだお釈迦様が生まれるよりも遥か昔、世自在王仏という仏様がいらっしゃった時代のお話です。ある国の国王が世俗を捨て世自在王仏の弟子となりました。元国王は名を法蔵菩薩と改めると、全ての人々を救いたいと思い五劫という長い長い時間をかけて四十八の誓いを立てられました。この誓いを「四十八願」、または「本願」といいます。「もし願いが成就しなければ私は仏にはならない」と、四十八願すべてで誓われた法蔵菩薩でしたが、長い長い修行の果てに全ての願いを成就して「阿弥陀」という仏となりました。そして「極楽浄土」という阿弥陀仏の国を建立し、そこへ至る為のあらゆる徳をおさめた「南無阿弥陀仏」の六字名号を私たちにお与え下さったのです。

 この四十八の本願のうち第十八番目の願は最重要であり根本の願であるため「王本願」といわれます。この第十八願では「すべての人々が心より疑いなく信じ、私の国(浄土)に生まれたいと思い、わずか十回でも南無阿弥陀仏と称えるならば必ず浄土に生まれさせる」との誓いが立てられています。一見すると誰にでも簡単に実践出来そうに思えますが、煩悩具足の凡夫である私たちにとっては、実は何より難しいことの一つなのです。(煩悩具足の凡夫=欲が多く、いつも怒りや嫉妬の感情に振り回され、それが臨終の時まで治まらない人のこと)

 わずか十回程度「なんまんだぶ」と声に出して言うことは簡単です。機能的な問題が無ければ誰にでも出来ることです。しかし「心より(至心)疑いなく信じ(信楽)浄土に生まれたいと思う(欲生)」ことはどうでしょうか? よくよく自分の身に照らしてみて、目に見えないものを心から疑いなく信じることが果たして可能でしょうか? あるかどうかも分からない極楽浄土よりも、この慣れ親しんだ娑婆世界の方に愛着を感じてしまうものではないでしょうか?

 「至心・信楽・欲生」を併せて三心と言います。これこそが真実の信心であり、本来なら私たち凡夫には到底持つことの叶わない限りなく清らかな心です。私たちの心の内をいくら探したところで絶対に見つかることのない心です。ではこの清らかな心はどこにも存在しないのかというと、実はたった一か所だけこの真実信心を求めることが出来ます。それは、阿弥陀仏のお心そのものです。真実の信心は私たちの側ではなく、阿弥陀仏の側にあるのです。

 私たちが浄土に生まれるために欠かせないこの三心を、阿弥陀仏は私たちに成り代わって成就するとともに、その三心をご自身の名におさめて私たちにお与え下さいました。これが南無阿弥陀仏の六字名号です。「なんまんだぶ」には阿弥陀仏の真実のお心がおさめられているのです。ですから罪業深重といわれる私たちであっても三心をもってお念仏することが可能なのです。南無阿弥陀仏はもちろん、至心も信楽も欲生すらも、そのすべてを阿弥陀仏より恵まれて私たちはお浄土に参らせて頂くのです。これは阿弥陀仏が私たちをお浄土に招いているのだと言い換えても差し支えないでしょう。「そこまでして私のようなものを浄土に生まれさせたいと願っておられるのか」と味わわせて頂きます。

 私たちの側から「自力」で用立てるものはひとつもありません。すべて阿弥陀仏が用意して下さっております。これを「他力」といいます。浄土真宗の信心を「他力信心」と申しますが、これは信心すらも阿弥陀仏にご用立て頂いていることを表しているのです。「他力本願」という言葉は皆様もご存知でしょう。自分以外の誰かの力をあてにする、という誤った意味で使われていますが、ここまで読んで下さった方なら「他力」をたのむ相手は阿弥陀仏の他には無いことがご理解頂けることでしょう。

 阿弥陀仏のお心が南無阿弥陀仏となって私たちに届いています。ありがたい、その気持ちで素直に受け取り、なんまんだぶ、なんまんだぶ、とただ称えるうちに全てが完全な形で備わっています。お浄土に間違いなく参らせて頂ける身となりました。ありがたいことです、なんまんだぶ、なんまんだぶ。