単立寺院という選択

 浄土真宗には沢山の宗派があります。真宗十派(本願寺派や真宗大谷派、高田派など)と呼ばれる真宗教団連合所属の主だった宗派の他にも、沢山のご寺院様がそれぞれに宗派を形成し地道に活動しておられます。またそれ以外に、いかなる宗派にも所属せず「単立寺院」という独立した布教形態をとるご寺院様もあります。当山はこの「単立寺院」に該当致します。
 浄土真宗といえば「お西さん(本願寺派)」か「お東さん(真宗大谷派)」と思っておられる方も多くいらっしゃることでしょう。事実、浄土真宗系寺院の大部分はそのいずれかに所属しておられます。しかしそれ以外にも親鸞聖人の法灯を今に継ぐご寺院様および団体様は多数いらっしゃいます。西栄寺もその末席に名を連ねさせて頂くものと自負しております。

 単立寺院ならではの利点は多くあります。まず余計なしがらみが無いこと、そのお陰で新しいことに気兼ねなく挑戦出来ること。その結果、檀信徒様の為のお寺として最大限機能出来ること。なにより格式にとらわれず檀信徒様にとって身近なお寺であることこそ、生粋のやんちゃ坊主である住職の願いでしたから、他所の顔色を窺いながら一律に横並びといった布教形態には収まろうはずもありませんでした。
 近年言われるような「お寺離れ」の原因はいったいどこにあるのでしょうか。いつからお寺は近寄り難い場所になってしまったのでしょうか。旧来の寺檀制度に胡坐をかき偉ぶっているだけの時代は終わりを迎え、檀信徒様が能動的にお寺を選ぶ新しい時代がやって来たのではないでしょうか。そのような思いを抱えて数々の革新を断行していくには伝統派閥の枠は少々狭すぎたのかもしれません。
 もちろん伝統があるのは素晴らしいことです。その中で脈々と受け継がれるものもありましょう。しかしその伝統が権威となり、その権威に依ってしまううちに見失ってしまうものがあるのもまた確かなようです。詳しくは申し上げませんが、残念なことにお念仏を頂く身でありながらも口さがない方々はいらっしゃるものです。「同行」「同朋」を高らかに宣言しながら、その一方で排除の論理をはばかることなく喧伝するその姿勢には大いに失望させられたものでした。そういった醜いもめごとから離れる為にも従来の派閥から離脱するという選択以外にはなかったように思います。

 さて、とかく新しもの好きに見られがちな住職ではありますが、実は個人的な想いは特別に革新的なお寺を作り上げることにあった訳ではありません。むしろ懐古的と言った方が良いでしょう。ご近所さんがふらっと立ち寄ってただ世間話をして帰っていくような、道行く人たちと気安く冗談を言い合えるような、子供たちが境内を駆け回って遊んでいるような、そんなどこか懐かしいお寺像が根底にありました。
 人々にとって身近な存在であること、それこそがお寺の価値であるとの信念に従って精一杯頑張ってきた結果が単立寺院という選択に繋がったのでしょう。それは今思えば自然なことだったのかもしれません。もちろんその歩みは決して平坦なものではありませんでしたが、その曲がりくねったでこぼこ道の途上で恵まれた数々のご縁が今日の西栄寺をお育て下さったことは間違いありません。
 今では散歩コースの一部として毎日境内を通り過ぎて行かれる方がいらっしゃいます。朝の出勤途中に山門で合掌される方がいらっしゃいます。近所の幼稚園に通う園児さんと保母さんが大勢遊びに来てくださいます。定期的に電話でお悩みを相談して下さる方がいらっしゃいます。本当に有り難いことです。
 誰にでも開かれた場所として、これからも西栄寺はあり続けます。個人と社会を繋ぐ役割を担い、皆様の生活の一部として溶け込んでいけますように。もしお近くにいらしたならいつでもお立ち寄りください。法務員一同こころより歓迎いたします。一緒に泣いて、笑って、お念仏申し上げましょう。