供養ということ

 「供養」という言葉は世間一般には「追善供養」の意味で捉えられている事が多いようです。「追善供養」とは亡くなった人が良い所に行けますようにとの願いを込めて、生きている私たちが「供養」することを言いますが、それはお念仏を頂く私たちにとっては必要のないことと言えるでしょう。幸運にもお念仏に出逢わせて頂いた私たちは、この身このままで浄土に救われて仏とならせて頂きます。「良いところにいけますように」と私たちが祈る必要はありません。阿弥陀如来の側から「浄土に生まれよ」と仰って下さっているからです。

 ですから浄土真宗では一切の追善供養を行いません。そのことに対して不安を感じる方もいらっしゃるでしょうが、そもそも凡夫たる私たちが追善供養をしたところでそれが亡くなった方に届くものでしょうか。はたして自分のことさえ救えない私たちが他の誰か、しかも既に亡くなっている方を救えるものでしょうか。確かに「仏説盂蘭盆経」では目連尊者が追善供養して母親を餓鬼道から救い出す姿が描かれたりもしていますが、わざわざそんな事をせずとも私たちにはもっと手近で確実な道が指し示されているのです。

 親鸞聖人は「歎異抄」の中で「父や母の追善供養のために念仏したことは一度もない」と仰っておられます。その理由として挙げておられるのが、一つには父や母といっても現在の人生にたどり着くまでの果てしない輪廻の中で無数の父母兄弟がいたことを考えれば、父母という言葉が指すのはあらゆるいのちであり、それを全て救うなど凡人に出来るはずがないということ、また二つには念仏というのはそもそも阿弥陀仏が私に与えて下ったものであって、私が誰かに施すものではないということです。近視眼的に現世で直接の繋がりがあった両親だけを、しかも借り物の念仏で救おうなどおこがましいということでしょうか。親鸞聖人は続けて、そうした自分中心の考え方から離れ、ただ阿弥陀仏の呼び声に従い浄土往生を果たして仏となれば、結果的にご縁のあった方々から自在に救うことも出来るだろうとも仰っておられます。

 浄土真宗は全てを阿弥陀仏にお任せする他力の信心です。「救いたい」「救われたい」という私たちの思い計らいを越えて「必ず救う」という阿弥陀仏の真実心を振り向けて頂くのみでそれ以外には何もありません。ですから浄土真宗では一切追善供養を行わないのです。また亡き方に振り向けるほどの善や徳を持ち合わせていないという深い自覚がありますから追善供養が出来るとも思っておりません。私たちに出来ることはただただ阿弥陀仏のお徳を褒め称え、せめてもの思いでお礼申し上げるとともにお燈明やお花を献じさせて頂くことぐらいでしょうか。ほぼ何も出来ないに等しいのですが、実はこれこそが「讃嘆供養」といって浄土真宗における正しいご供養の在り方なのです。
 
 そもそも供養とはお花やお香、灯明、飲食などを真心から捧げることをいいます。サンスクリット語pūjanāの訳語であり、元々の意味は「尊敬」です。どこにも死者の弔いという意味はありません。冒頭に申し上げた「供養=追善供養」という誤った認識のせいか、追善供養を行わない浄土真宗には供養そのものがないと誤解しておられる方も少なくありません。しかし実際には日本中の真宗寺院において毎日欠かさず「讃嘆供養」が行われていることでしょう。親鸞聖人は「尊号真像銘文」のなかで「南無阿弥陀仏をとなえる事は仏を褒めたたえることである」と仰っておられますから、お仏壇をお飾りして「なんまんだぶ」と合掌する日常の姿そのものがそのまま「讃嘆供養」であると言えるでしょう。

 浄土真宗においては、亡くなった方は私を阿弥陀仏の本願へ導いて下さる「諸仏」と仰いでご供養致します。浄土往生を果たし阿弥陀仏と同等の悟りに至った「仏さま」ですから追善する意味がそもそもありません。地獄に落ちたかもしれない可哀想な人として扱うなどあり得ないのです。
 御燈明を献じ、お花を飾り、お香をお供えし、合掌して念仏するその響き、私の仏さまとして頭が下がっていくその姿勢こそが、念仏を頂く者としてのあるべきご供養の形と言えるでしょう。